2023年12月23日〜27日まで、「アート合宿」に参加してきた。
「絵を描くこと」が大嫌いだったわたしが、なぜアート合宿に参加して、参加した後どう感じて、8ヶ月経過した今、どう考えているのか?を記しておきたいと思う。
なぜ、アート合宿に参加したのか?
シンプルに誘われたから、だ。
誘われる前からその合宿の存在は知っていた。
それは9月に開催された合同展「Edge展」に行ったときから、すでに始まっていた、今から思うと。
絵を描くことには興味がなかったが、「Edge展」に出ている友人の絵を見に行きたいと思った。
友人に会うのが目的で、絵は二の次。
ただ、彼女が絵に没頭していることは知っていて、何が彼女をそうさせるのか?ということには興味があったのだと思う。
その「Edge展」のときに、次の合宿が2023年12月に行われることを知った。
そのときだ。
「アート合宿行ってみたい」
小さな小さな心の声だった。
「えー、嘘でしょう??絵だよ、ちかちゃん、何言ってるの?絵下手だし、絵嫌いじゃない!なんで、絵をわざわざ描くアート合宿に行きたいわけ??」
「やめとき、やめとき、5日間も絵を描き続けるなんて、つまんないから、大変だから、途中で飽きちゃうよ、行かないほうがいいよ」
わたしの頭の中は忙しい。
そうだよねー、と頭で理解しているのに、ハートからの「アート合宿行きたいなー」という声は消えなかった。
そこから2ヶ月ぐらいは悶々としていた。
行くと思う、でも、行きたくない。
あるとき、別の友人と心の学びについて話していた。あ、彼女にアート合宿はピッタリだ!とひらめいた。
そして「わたしは行くかどうか、迷っているけれど、あなたは行ったほうがいいと思う」と勧めた。
その2日後、その彼女から「一緒に行こう」と。
「あ、行くんだ、わたし」と思って、観念したことを覚えている。
そうはいいながら、直前まで、わたし、何するんだ?絵じゃなくて、アートを使って心の学びができるような場作りを勉強するために行くんだ、とか言い訳していた。
振り返って、このときに誘ってくれた友人にも感謝だし、行くと決めた自分にも感謝。
けれど、よく、いくと決心したなと今でも思う。
夢中で絵を描く体験
アート合宿、とにかく楽しかった。
絵が嫌いだったと思っていたが、実は嫌いではなかった。
上手に描かなくていい、遊べばいいとわかったころから、自由に絵を描き始めた。
そのときの作品、様子については、以下のブログをどうぞ。
アート合宿から帰ってきてわかってきたことは、
実はわたしは絵を描くのが好きだということだ。
特に多色使いで、色を混ぜ合わせたり、鮮やかな色を組み合わせるのが大好きだ。
しかし、これまで絵を描くということはしてこなかった。
下手だと信じていたからだ。
絵なんて誰が描くものか
そう、わたしは絵を描くことが大嫌いだった。
なぜなら図工はいつも「3」だったから。
覚えているのは小学校2年生のとき。たまたま絵が上手に描けたことがあった。
友人に褒められ、先生に褒められ、ちょっと嬉しかった。
けれど、次に描いた絵を見て、母が一言言った。
「あなたは絵が下手ね」。
そこから絵を描くのが嫌になったように思う。
だから「絵なんて誰が描くものか」と思っていた。
ある意味、拗ねてたんだなーと思う。
けれど、絵が下手ってなんだ??
アート合宿のときにそう思った。
うまい、下手は言った人の主観だ。
でも自分の絵を、他人にとやかく言われる必要はない。
それなのに、わたしは50年以上も、母に言われた「絵が下手ね」を握りしめて、
絵という表現から遠のいてしまっていた。
絵を描いてみて
アート合宿が素敵なところは、「筆で遊んでみて」「色で遊んでみて」と始まるところだ。
おかげで最初から気負わず、遊びながら描くことができた。
一緒に行ったメンバーに、いろんなやる気スイッチを押してもらい
わたしはどんどん絵を描いていくようになった。
主に描いていたのはハートだった。しかも傷ついたハート。
何枚も、何枚も、描いているうちに、疲れて描きたくなくなった。
もういい、傷ついたわたしのハートは十分だ。
今から思うと、ハートを描くことでハートを癒していたのだと思う。
アートセラピー的な効果があったのだろう。
セッションして、過去の経験を思い出して、そのときの辛い記憶と向き合いながら、なんてしなくても、ただただ絵を描いて、涙を流せば、流れる感情もあるのだと実感した。
絵はわたしそのもの
あと気づいたことは、わたしの描く「絵」は、わたしそのものだということだ。
アート合宿では描いた絵に対して、印象をみんなでシェアするという場がある。
自己紹介もそこそこに始めるのに、絵を見て、「ちかさんは人と人をつなぐ人」と言われたときには、腰を抜かすほどびっくりした。
なんでわかるの???
でも、絵がわたしそのものなのだから、わかるわけだ。
当たり前といえば、当たり前。
だけど、自分で絵を描いてこなかったわたしにとって、絵が自分を表現しているという感覚は全くなかった。
絵はうまい人だけが描けばいいもの、と信じていた。
ある意味、これ、ビリーフだよね。
裏返すと「絵が下手なわたしが絵を描くなんておこがましい」という禁止を自分にしていた。
全く気が付かない抑圧だった。
だって「絵を描くことは嫌い」と信じていたから。これもビリーフ。
それに、本当に嫌いなら、帰ってきてから、毎日のように絵は描かなかっただろう。
表現が戻って人生がカラフルに
アート合宿のおかげで、わたしの人生がカラフルになったとも言える。
たぶん、元々カラフルでパワフルな人生だったけれど、もっと色が増えた、表現する選択肢が増えた。
「絵を描く」という選択肢を抑圧していたことで、知らず知らずにうちに他の表現方法も抑圧していたことにも気づいた。
わたしがわたしに唯一許していたのは「音楽」という表現方法だけだった。
それ以外はダメって思っていた。
だって、下手だから。
けれど、「下手でもいい」「絵を描いてもいい」と解禁したら、
「クリスタルボウル」の奏者として奏でることができるようになり
打楽器の「カホン」にも挑戦するようになった。
そう、音楽も「ピアノ」以外の選択肢が一気に増えたのだ。
直近では、iPadで絵を描き始めた。
絵の具を出して、という手間がなく、手軽なので、どんどん量産している。
これも、絵を描くというより、Apple Pencilで遊んでいる感覚だ。
だから、次から次へと作品が生まれる。
そうすると、フローに乗っているのか、ブログをせっせと書くようになった。
なんだろうか、この表現が止まらない感覚。
そう、この8ヶ月で
① アクリルの絵
② クリスタルボウル
③ カホン
④ iPadによる絵
⑤ ブログ
という表現方法が加わったり、戻ったりしてきた。
選択肢が増えたことで、急に視野が広がった、そんな感覚もある今日この頃だ。